1796年には、デジレ・クラリーとの婚約を反故にして、貴族の未亡人でバラスの愛人でもあったジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚。同年、総裁政府の総裁となっていたバラスによってナポレオンはイタリア方面軍の司令官に抜擢された。フランス革命へのオーストリアの干渉に端を発したフランス革命戦争が欧州各国をまきこんでいく中、総裁政府はドイツ側の二方面とイタリア側の一方面をもってオーストリアを包囲攻略する作戦を企図しており、ナポレオンはこの内のイタリア側からの軍を任されたのである。
ドイツ側からの軍がオーストリア軍の抵抗に頓挫したのに対して、ナポレオン軍は連戦連勝[1]。 1797年4月にはウィーンへと迫り、同年4月にはナポレオンは総裁政府に断ることなく講和交渉に入った。そして10月にはオーストリアとカンポ・フォルミオ条約を結んだ。これによって第一次対仏大同盟は崩壊、フランスはイタリア北部に広大な領土を獲得して、いくつもの衛星国を建設し、膨大な戦利品を得た。このイタリア遠征をフランス革命戦争からナポレオン戦争への転換点とみる見方もある。フランスへの帰国途中、ナポレオンはラシュタット会議に儀礼的に参加。12月、パリへと帰還したフランスの英雄ナポレオンは熱狂的な歓迎をもって迎えられた。
オーストリアに対する陸での戦勝とは裏腹に、対仏大同盟の雄であり強力な海軍を有し制海権を握っているイギリスに対しては、フランスは決定的な打撃を与えられなかった。そこでナポレオンは、イギリスにとって最も重要な植民地であるインドとの連携を絶つことを企図し、英印交易の中継地点でありオスマン帝国の支配下にあったエジプトを押さえること(エジプト遠征)を総裁政府に進言し、これを認められた[2]。
1798年7月、ナポレオン軍はエジプトに上陸し、ピラミッドの戦いで勝利してカイロに入城した。しかしその直後、アブキール湾の海戦でネルソン率いるイギリス艦隊にフランス艦隊が大敗し、ナポレオン軍はエジプトに孤立してしまった。12月にはイギリスの呼びかけにより再び対仏大同盟が結成され(第二次対仏大同盟)、フランス本国も危機に陥った。1799年にはオーストリアにイタリアを奪還され、フランスの民衆からは総裁政府を糾弾する声が高まっていた。これを知ったナポレオンは、自軍はエジプトに残したまま側近のみをつれ単身フランス本土へ舞い戻った[3]。
フランスの民衆はナポレオンの到着を、歓喜を持って迎えた。11月、ナポレオンはブルジョワジーの意向をうけたエマニュエル=ジョゼフ・シエイエスらとブリュメールのクーデターを起こし、統領政府を樹立。自ら第一統領(第一執政)となり、実質的に独裁権を握った。もしこのクーデターが失敗すれば、ナポレオンはエジプトからの敵前逃亡罪及び国家反逆罪で銃殺刑を免れ得ないところであった。
統領ナポレオン
統領政府の第一統領(第一執政)となり、政権の座に着いたナポレオンであるが内外に問題は山積していた。
第二次対仏大同盟に包囲されたフランスの窮状を打破することが急務であった。まずイタリアの再獲得を目指し、ナポレオンは当時の常識ならば軍は地中海側のルートをとるしかないと思われていたところにアルプス山脈を越えて北イタリアに入る奇策をとった。しかし兵の配置の失敗もありオーストリアの大軍の前に大敗寸前まで追い込まれたが、別働隊の到着で1800年6月のマレンゴの戦いにおいてオーストリア軍に辛くも勝利した。別働隊の指揮官でありナポレオンの親友であったルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼーはこの戦闘で亡くなった。12月には、ドイツ方面のホーエンリンデンの戦いでジャン・ヴィクトル・マリー・モロー将軍の率いるフランス軍がオーストリア軍に大勝した。翌年2月にオーストリアは和約に応じて(リュネヴィルの和約)、ライン川の左端をフランスに割譲し、北イタリアなどをフランスの保護国とした。この和約をもって第二次対仏大同盟は崩壊し、フランスとなおも交戦するのはイギリスのみとなったが、イギリス国内の対仏強硬派の失脚や国内の宗教・労働運動の問題、そしてナポレオン率いるフランスとしても国内統治の安定に力を注ぐ必要を感じていたことなどにより、1802年3月にはアミアンの和約で講和が成立した。
ナポレオンは内政面でも諸改革を行った。全国的な税制制度、行政制度の整備を進めると同時に、革命期に壊滅的な打撃をうけた工業生産力の回復をはじめ産業全般の振興に力をそそいだ。1800年にはフランス銀行を設立し通貨と経済の安定を図った[4]。 1802年には有名なレジオンドヌール勲章を創設。さらには国内の法整備にも取り組み、1804年には「フランス民法典」、いわゆるナポレオン法典を公布した。これは各地に残っていた種々の慣習法、封建法を統一した初の本格的な民法典で、「万人の法の前の平等」「国家の世俗性」「信教の自由」「経済活動の自由」等の近代的な価値観を取り入れた画期的なものであった[5]。 教育改革にも尽力し「公共教育法」を制定している[6]。 また、交通網の整備を精力的に推進した[7]。
フランス革命以後敵対関係にあったローマ教会との和解も目指したナポレオンは、1801年に教皇ピウス7世との間で政教条約を結び、国内の宗教対立を緩和した。また革命で亡命した貴族たちの帰国を許し、王党派やジャコバン派といった前歴を問わず軍隊や行政に登用し、政治的な和解を推進した。その一方で、体制を覆そうとする者には容赦せずに弾圧した。
ナポレオンが統領政府の第一統領となった時から彼を狙った暗殺未遂事件は激化し、1800年12月には王党派による爆弾テロも起きていた。そして、それらの事件の果てに起こった1804年3月のフランス王族アンギャン公の処刑は、王を戴く欧州諸国の反ナポレオンの感情を呼び覚ますのに十分であった。ナポレオン陣営は相次ぐ暗殺未遂への対抗から独裁色を強め、帝制への道を突き進んで行くことになる。
さらにフランスの産業が復興し市場となる衛星国や保護国への支配と整備が進められる一方で、かねてより争いのあったイギリスもまた海外への市場の覇権争いから引くわけにはいかなかった。既に1803年4月にはマルタ島の管理権をめぐってフランスとイギリスの関係は悪化しており、5月のロシア皇帝アレクサンドル1世による調停も失敗し、前年に締結したばかりのアミアンの和約はイギリスによって破棄され、英仏両国は講和から早くも1年で再び戦争状態に戻ろうとしていたのである。こうした国内・国外の情勢の中、ナポレオンは自らへの権力の集中によって事態をおしすすめることを選び、1802年8月2日には1791年憲法を改定して自らを終身統領(終身執政)と規定した。そして、1804年には、議会の議決と国民投票を経て世襲でナポレオンの子孫にその位を継がせる皇帝の地位についた。皇帝の地位に就くにあたって国民投票を行ったことは、フランス革命で育まれつつあった民主主義を形式的にしても守ろうとしたものだったとする見方もある。
一方、植民地では1801年7月7日に、トゥーサン・ルーヴェルチュールがサン=ドマングの支配権を確立し、スペイン領サントドミンゴに侵攻して全イスパニョーラ島を統一し、さらに自治憲法を制定して黒人奴隷の解放を行っていた。 ナポレオンはサン=ドマングを再征服するために、義弟のルクレール将軍をサン=ドマング植民地に送った。ルクレール将軍は熱病、ゲリラ戦に苦戦しながらもだまし討ちでトゥーサンを捕え、フランス本国に送り、トゥーサンは獄死した。さらに1803年4月アメリカ合衆国にルイジアナ植民地を売却した(ルイジアナ買収)。しかし、奴隷制を復活したことにサン=ドマングの黒人は強く怒り、1803年11月にフランス軍は大敗を喫した。
1804年1月1日、ジャン=ジャック・デサリーヌが指導するフランス領サン=ドマングはハイチ共和国として独立した
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