1617年(元和3年)、池田氏は跡を継いだ光政が幼少であり、重要地を任せるには不安である事を理由に因幡鳥取へ転封させられ、伊勢桑名から本多忠政が15万石で入城した。
1618年(元和4年)には千姫が本多忠刻に嫁いだのを機に西の丸が整備され、全容がほぼ完成した。
要衝姫路の藩主は親藩および譜代大名が務めたが、本多家の後は奥平松平家、越前松平家、榊原家、再度越前松平家、再度本多家、再度榊原家、再々度越前松平家とめまぐるしく入れ替わる。1749年(寛延2年)上野前橋城より酒井氏が入城してようやく藩主家が安定する。しかし、豪壮な姫路城は石高15万石の姫路藩にとっては非常な重荷であり、譜代故の幕府要職も相まって藩の経済を圧迫していた。
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姫路城は江戸時代にもたびたび修理が行なわれてきたが、当時の技術では天守の重量に礎石が耐えられず沈み込んでいくのを食い止める事は難しかった。加えて柱や梁などの変形も激しく、俗謡に『東に傾く姫路の城は、花のお江戸が恋しいか』などと歌われるありさまであった[15]。
幕末期、鳥羽・伏見の戦いにおいて姫路城主酒井忠惇は老中として幕府方に属し将軍徳川慶喜と共にあったため、姫路藩も朝敵とされ姫路城は岡山藩と龍野藩の兵1,500人に包囲された。この時、輝政の子孫・池田茂政の率いる岡山藩の部隊が姫路城に向けて数発空砲で威嚇砲撃を行なっている。その中に実弾も混じっており、このうち一発が城南西の福中門に命中している。官軍の姫路城総攻撃は不可避と思われたが、摂津国兵庫津の勤王豪商・北風正造が15万両に及ぶ私財を官軍に献上し、それを食い止めた。この間に藩主の留守を預かる家老達は最終的に開城を決定、城明け渡しで官軍と和睦する。こうして姫路城を舞台とした攻防戦は回避され、後年の世界遺産は焼失を逃れた。
明治時代 [編集]
1871年(明治4年)に廃藩置県が実施され、さらに1873年(明治6年)の廃城令[16]によって日本の城の多くがもはや不要であるとして破却された。姫路城は競売に付され、城下の米田町に住む個人、神戸某が23円50銭で落札した。城の瓦を売るのが目的であったという。しかし、解体費用がかかりすぎるとの理由で結局そのままにされ、権利も消滅した。その後1927年(昭和2年)、その個人の息子が、姫路城の所有権を主張して訴訟を起こそうとしたと報じた新聞があったが、別の新聞が後日取材したところでは事実無根だという話であったという[17]。
城跡は陣地として好適な場所であった事から、陸軍の部隊は城跡に配置される例が多かった。1874年(明治7年)には姫路城内に歩兵第十連隊が設置された。この際、本城などの三の丸の建物や武蔵野御殿、向屋敷などの数多くの建物が取り壊された。さらに1882年(明治15年)には失火で備前丸を焼失している。
一方で、明治時代初頭の大変革が一段落付いた1877年(明治10年)頃には、日本の城郭を保存しようという動きが見られるようになった。陸軍において建築・修繕を担当していた中村重遠(しげとお)工兵大佐は、1878年(明治11年)に陸軍卿山縣有朋に名古屋城および姫路城の保存を太政官に上申するよう願い出て、ようやく姫路城の修復は第一歩を踏み出した。姫路城の菱の門内側には中村大佐の顕彰碑が残る。だが、肝心の予算はなかなか下りず、陸軍の予算からどうにか捻出された保存費は要求額の半分にも満たないものであった。これによってどうにか応急的な修理を施したもののなおも腐朽は進む一方であり、城下各地の有志達の衆議院への陳情によってようやく1910年(明治43年)、国費9万3千円が支給されて「明治の大修理」が行われた。これも天守の傾きを修正するには費用が足りず、傾きが進行するのを食い止めるに留まった。その後、1919年(大正8年)にも陸軍省が西の丸を修理している。後に第十連隊は岡山へ移転した。
第二次世界大戦 [編集]
太平洋戦争にあって姫路城の白壁は非常に目立ち、また、陸軍の部隊が置かれていた姫路はアメリカ軍の爆撃対象とされることは明らかであったため、黒く染めた網で城の主要な部分を覆い隠す事とした。しかし、1945年(昭和20年)7月3日の姫路大空襲で姫路城下は灰燼と帰する[18]。城内にも着弾するが本城跡に有った中学校校舎のみが焼失しただけで、西の丸に着弾した2発は不発あるいはすぐに消火された。また大天守にも焼夷弾が直撃したものの、不発だった[19]など、城本体は奇跡的に炎上を免れた。翌朝、焦土の中に無事に建つ姫路城を見て、城下の人々は涙したという[17]。
姫路城は貴重な文化財なので爆撃対象とはされなかったという俗説があるが、日本の他の都市やドイツにおける無差別爆撃では歴史的建造物も容赦なく破壊されたことから、そのような考えはなかったとするのが一般的である(ラングドン・ウォーナーの項も参照)。また、当時のB-29搭乗員は「レーダーから見れば城も輝く点の一つであり、それを歴史的建造物と認識するのは難しい」と回顧している。